宇宙の法則の研究と実践

最近は方位学の検証事例をアップしています。

イチローの取った方位

 

今回は元プロ野球選手のイチローのメジャー挑戦の方位について、方位学的な視点から考察してみる。

 

イチロー

 

イチローの取った方位

生誕からプロ入り前まで


以下Wikipediaより抜粋。

愛知県西春日井郡豊山町出身。

1973年10月22日に鈴木宣之の次男として誕生。
生後間もなく名古屋市守山区から西春日井郡豊山町へ転居。

 

名古屋市守山区から西春日井郡豊山町の方位は、乾宮(北西)の乾ノ方


生後間も無く転居とのことだが、何月かは不明。
仮に10月とすると、方位盤は以下のとおり。

1973年10月の方位盤

乾宮(北西)

年盤:甲寅 一白水星
月盤:癸亥 七赤金星 歳馬 歳徳合

 

イチローの命式は、以下のとおり。

イチローの命式

 

1973年節中の移転であれば、乾宮(北西)の年盤に甲寅の「寅」が巡る。
この寅は、命式に「丑」と「卯」と「辰」を持つイチローにとって、丑寅卯辰と四支並びとなる解神であるため大吉の方位だった。

月盤は暗剣殺だが、この暗剣殺は吉神が重なっているため制化されるとみる。

 

以下は、イチローの小学校時代からの経歴(Wikipediaより抜粋)

 

・小学校時代

地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。
エースで4番として活躍し、6年生の時には全国大会に出場した。
小学3年生の頃から、学校から帰宅後に近くの公園で父親と野球の練習をした。
しばらくすると、飛距離が伸び場外本塁打を連発するようになったため、町内にある空港バッティングセンターに週6日から週7日通っていた。
3年生の時には速度100km/hの球を打っていたという。

 

・中学校時代

豊山町豊山中学校では小学生時代のチームメイトと共に野球部に所属。
エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。 
甲子園に出場して、プロに入るために野球名門校である愛知県名古屋市愛工大名電高校に進学する。

 

・高校時代

愛工大名電時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得。
2年時は、夏の甲子園に3番・左翼手として出場、3年時は春の甲子園に投手として出場するが、いずれも初戦敗退。
高校3年間の通算成績は536打数269安打、打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131。
特に3年時の地方大会での打率は7割以上を記録している。
あまりの好成績に、当時の監督からは「宇宙人」とも呼ばれていた。
投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた。
1992年、高校卒業後にプロ野球オリックスに入団。

 

 

 

日本プロ野球時代

1991年のドラフト会議(1991年11月22日)でオリックスに4位指名されて、1992年にオリックス入団。
入団後は神戸にあった選手寮「青濤館」に入寮。

 

愛知から兵庫県神戸市への方位は、兌宮(西)の庚ノ方

愛知から兵庫県神戸市への方位


入寮時期については、何月に入寮したかまではわからなかった。
イチローの高校卒業が1992年3月で、普通に考えれば卒業直後に入寮したと見るのが自然だが、例年この球団の入団選手は1月初旬に入寮している。
入寮しなくても、他の選手と同様に1月から現地で練習に参加していた可能性もあるかもしれない。

 

両者の時期の方位を見てみる。

 

1992年3月節の方位盤は、以下のとおり。

1992年3月節の方位盤

1992年3月節の場合だと、年盤が月命殺、月盤が破れであるため、あまり良い方位とは言えない。

 


1992年1月(節入前の12月節)の方位盤は、以下のとおり。

1992年1月(節入前の12月節)の方位盤

仮に1992年1月の節入前の移動だったとすると、月盤にまたイチローの解神の「寅」が巡るため大吉の方位となる。

 


日本プロ野球史上最高選手の一人であるイチローも、プロ入り後に最初から一軍で活躍していたわけでは無かった。
最初の2年間は、一軍監督やコーチ陣と方針の違いなどで一軍と二軍を行ったり来たりしていて、主に二軍で下積み時代を過ごしている。


以下、Wikipediaより抜粋。

オリックス時代
1993年二軍生活となったイチローは、同年秋に二軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた。

 

イチローが当時の一軍監督やコーチ陣と打撃フォームの考え方などが合わずに、
一軍で落とされ、二軍で活躍して、再度一軍で落とされるなど、一軍と二軍を行ったり来たりしていた中で、
河村氏は「そのままのスタイルで良い、自分に合わんことは聞かんでもいい」と自分を貫くようにアドバイスをして、イチローの特長を伸ばすように一緒に練習に取り組んだという。

 

この二軍打撃コーチだった河村健一郎氏だが、命式を見るとイチローの解神である寅を持つ。


河村健一郎氏の命式は、以下のとおり。

河村健一郎氏の命式

 

河村健一郎氏はイチローの解神の「寅」を持ち、さらにイチローと子丑寅卯辰巳の五支並び&東の方局(寅卯辰)となるため、イチローとはかなり発展的な相性と見ることができる。

 

1994年に一軍コーチ陣が入れ替わり、新たに一軍打撃コーチに就任した新井宏昌打撃コーチも、命式に「寅」を持っていた。

 

イチローはその後、1994年に首位打者を獲得して以降7年連続で首位打者を獲得するなど、日本プロ野球史上に残る活躍を見せた。

 

イチローの日本プロ野球での主な実績は、以下のとおり。

首位打者:7回(1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、1999年、2000年)
本塁打王:1回(2000年)
打点王:1回(1995年)
盗塁王:1回(2000年)
最高出塁率:7回(1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、1999年、2000年)
最多安打:6回(1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、1999年)
最多盗塁:2回(1996年、2000年)
最多敬遠:3回(1998年、1999年、2000年)
ゴールデングラブ賞:5回(外野手部門:1996年、1997年、1998年、1999年、2000年)
日本プロ野球で史上最多の2,160安打、117盗塁を記録。
4000打席以上で見れば、通算打率.353となり、歴代1位。

Google Bardからのコピペなので、細かいところは正しくないところがあるかもしれないが、イチローの活躍については異論はないかと思う。)

 

 

 

メジャーリーグ時代

その後、メジャーへ挑戦。

2000年11月10日に、日本人初のポスティングシステムによる独占交渉権をシアトル・マリナーズが1300万ドル余りで獲得。19日に3年契約で合意し、28日に渡米。
30日に3年総額1400万ドルで正式契約を結び、日本人野手初のメジャーリーガーとなった。背番号は51。

 

日本(関西)からシアトルの方位は、艮宮(北東)の艮ノ方。

日本(関西)からシアトルの方位


イチローが渡米した2000年11月28日の方位盤は、以下のとおり。

2000年11月28日の方位盤

艮宮(北東)
年盤:癸未 三碧木星
月盤:庚寅 八白土星 貴人

 

メジャー挑戦のために渡米した方位も、月盤にイチローの解神の「寅」が巡る方位だった。
さらにイチローは本命九星が九紫火星であるため、年盤の三碧木星、月盤の八白土星はいずれも相生関係となりその点もプラスと見る(木生火、火生土)。

一方で年盤を見てみると未が巡り、命式に戌と丑を持つイチローにとっては三刑の関係で凶だが、害と合っていないのでそこまで凶意は大きくないと見る。

 

11月28日に正式契約のために渡米した際にどのくらい滞在したかは定かではないが、
12月1日にマリナーズの本拠地セーフコ・フィールドを訪れた際の写真が残っているため、少なくとも3、4日は滞在したと見られる。

 

マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドを訪れたイチロー夫妻。左はアームストロング球団社長=AP(2000年12月1日撮影)


その後一度帰国して、再度翌年2001年1月9日に渡米している。

 

多くのファンの見送りを受けながら、弓子夫人と共に搭乗ゲートに向かうイチロー選手=9日午後、関西空港で(2001年1月9日撮影)

 

一応2001年1月の方位盤も見てみる。

2001年1月の方位盤

 

艮宮(北東)
年盤:癸未 三碧木星 地支定位対冲
月盤:壬辰 六白金星 九星本命的殺

 

六白金星はイチローにとって財の取れる九星ではあるが、それ以外は特段吉凶のない方位。

長澤まさみのシンデレラオーディションの時期もそうだったが、事象の出ている周期的に、実際の転居時期より、最初にその場所へ方位を取った時期の方位盤の事象が出る可能性がある。

大成功した有名人の方位2 長澤まさみ

 

実際のところ、イチローも最初に渡米した11月時点で当時としては破格の3年総額1400万ドルの正式契約を結んでおり、それを前提にメジャーでのキャリアが始まっている。

 

 

渡米後の活躍について、原則吉事象の出る四飛び周期(1・5・9・13…年目)を中心に見ていくと(以下Wikipediaより抜粋)、

 

・1年目

2001年4月2日の開幕戦に、1番・右翼手で先発出場。
順調に安打を積み重ね、4月から5月にかけて2か月連続でこの年から制定されたルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞。

 

オールスターゲームではファン投票で337万票を獲得。
日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる得票数で初選出された。

 

7月はキャリアを通じて自己ワースト(当時)となる21打席連続無安打を喫し失速するが、翌月から復調。
8月28日には132試合目での200安打に到達。
9月8日には1996年にアレックス・ロドリゲスが記録した球団最多安打記録の215安打を更新。
再び8月と9月の2か月連続で月間新人MVPを受賞する活躍で、シーズン116勝(MLBタイ記録)でのチームの地区優勝に大きく貢献した。
マリナーズのこの活躍は、コミッショナー特別表彰を受けとることになる。

 

この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、MLBの新人最多安打記録を更新するとともに、アジア人打者初の新人王を受賞。
さらに首位打者盗塁王・シーズンMVP・シルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞という数多くのアジア人初のタイトルや表彰を獲得した。
打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。
新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア本塁打王)以来6人目である。
その他にも安打試合数の135試合は歴代1位タイ、127得点はリーグ2位、得点圏打率(.445) は両リーグを通じて1位を記録した。

 


・5年目

2004年10月1日、256安打としていたイチローは、第二打席にセンター前に弾き返して258安打とし、
84年間破られることのなかったジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録の257安打を更新した。

 

最終的にチームは12年ぶりの地区最下位に沈んだが、自身はジョージ・シスラーのシーズン安打記録を5本上回る262安打でシーズン最多安打記録を更新。
この記録は15年以上たった現在も破られていない。

 

同時に打率.372を残すと、MLBでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いたほか、得点圏打率(.372)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)、出塁数(315) でもリーグ1位を記録。
出塁率(.414)、盗塁数(36)などではリーグ2位を記録した。
262安打の影に隠れがちであるが、月間50安打をシーズンで3度達成したのは史上初、またロード打率(.405)、後半戦打率(.429)を記録。
さらにロードで記録した145安打もロード記録としてはシーズンMLB最多安打となった。

 

この記録は内外で高い評価を受け、アメリカ合衆国では多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、『USAトゥデイ』紙にもバリー・ボンズが700号本塁打を放った時以来の全面広告でメジャーリーグ機構が祝福の意を表した。
ジョージ・シスラーの記録そのものが「破るのが困難な記録」とされていたこともあり、イチローは史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受け、アメリカ野球殿堂には特別ブースが用意された。
日本においては正力松太郎賞特別賞が授与された。

 

 

・9年目

2009年はWBC終了後、マリナーズに合流。
WBCの影響から極度の疲労により体調を崩すと、4月3日に精密検査を受けた結果、胃に出血性の潰瘍が認められ、自身初の故障者リスト入りとなった。

 

復帰戦となった4月15日のエンゼルス戦の第5打席で満塁本塁打を放ち、張本勲が持つ日本最多安打記録の3085本にNPB/MLB通算で並び、翌16日のエンゼルス戦の4回に右前打し、3086本として、安打日本記録NPB/MLB通算で更新した。

 

5月にはMLBタイ記録に残り1と迫る通算7度目の20試合以上連続安打。
6月3日には自身の持つ球団記録を塗り替える27試合連続安打を記録し、メジャー9年間で最高となる打率.362で前半戦を終了。オールスターゲームにも9年連続の選出を果たした。

 

9月6日、対アスレチックス戦の初回に右翼線へ痛烈な二塁打を放ち、MLB通算2000安打を達成。
9シーズン目での到達は史上最速、1402試合目での達成はアル・シモンズの1390試合に次ぐ史上2番目のスピード記録だった[62]。
9月13日にはウィリー・キーラーが持っていた8年連続200安打を108年ぶりに更新する9年連続200安打を達成。

 

4月から10月まですべての月で月間打率3割以上を記録。
前年の8月から続いていた2試合連続無安打なし記録を9月下旬まで継続。
併殺打の数も出場1試合目に記録した1のみに留めるなど、シーズンを通して抜群の安定感を見せた。4月に故障者リスト入りしたこともあり一時は連続200安打の記録更新も危ぶまれたが、終わってみればシーズン225安打を記録。
220安打以上は自身5度目で、ジェシー・バーケットが4回の220安打を記録して以降108年間更新者が現れなかった記録を破った。

このシーズンはジョー・マウアーと首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.352(1位のジョー・マウアーとは1分3厘差)と、MLB史上初となる4年連続最多安打を記録。
また、MLB移籍後では自己最高の長打率を残した。自身3度目の最多敬遠も記録。2007年以来3度目となるシルバー・スラッガー賞を受賞した。

 

シーズンを通じての「100得点」「30盗塁」の連続記録は8年で途絶えたが、「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」については9年連続と伸ばした。
2006年以来のフィールディング・バイブル・アワードにも選出された。

 

 

・13年目

2012年
ヤンキース時代
チームは10月3日のレギュラーシーズン最終戦に地区優勝を決め、イチローもシーズン最終打席に適時打を打った直後に1ゲーム差で追っていたボルチモア・オリオールズタンパベイ・レイズに敗れたため地区優勝が決定。
最終的にチームも勝利し、イチローにとっては2001年以来の12年ぶりの地区優勝を決めた。
MLBでは自身初のシャンパンファイトを経験した。

 

レギュラーシーズン全体の安打数は178安打と前年を下回る自己最低記録ではあったが、打率は.283と前年を上回った。
しかも、マリナーズ時代までは95試合で105安打、4本塁打、打点28、打率.261といった自己キャリア最低記録更新ペースの低迷であったが、ヤンキース移籍以降は67試合で73安打、5本塁打、打点27、打率.322と大幅に改善された。
特に本拠地ヤンキー・スタジアムでの成績は打率.359であり、ヤンキース移籍後の本塁打は全てヤンキー・スタジアムでのものであるなど、この年のマリナーズで残した成績の打率.261、ホームセーフコ・フィールドでの打率.214、移籍前の4本塁打中3本はホームではなくロードゲームで打ったのとは対照的な成績となった。

 

ポストシーズンでは全試合で2番打者として出場。オリオールズとのアメリカンリーグディビジョンシリーズ(ALDS)第1戦では3安打の活躍を見せる。
第2戦では二死一塁の場面でロビンソン・カノの二塁打の間に生還。
この場面では、完全にアウトのタイミングで三塁を回ったが(三塁ベースコーチは本塁突入を指示している)、相手捕手のマット・ウィータースのタッチを2回かわしてホームインする活躍を見せた。このホームインは各所で話題を呼び、「忍者」と言った呼び方や、映画の『マトリックス』にちなんで「Matrix」、「サルサダンス」などと呼ばれ大きな反響を呼び、ESPNはこのスライディングを「ひょっとしたらヤンキースの歴史の中でも最高のスライディング (Ichiro Suzuki made perhaps the best slide in the history of the Yankees.)」と報道した。

 

デトロイト・タイガースとのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)第1戦では、9回にホセ・バルベルデからポストシーズンで初となる本塁打を放つなど6打数4安打4打点の活躍を見せたがチームは敗れ、その後チームは4連敗を喫し敗退。
敗退後は、「悔しい思いしかないが、こういう本来持っている気持ちを思い出させてもらったことに感謝している。色んなものを僕に与えてくれた。ここでしか味わえないものは確実に存在する」と語った。

 

2012年にヤンキースと結んだ契約が終了し、プロ入り後初めてFAとなったオフには、イチロー自身が残留を望んでいるとされていたヤンキースの他に、サンフランシスコ・ジャイアンツフィラデルフィア・フィリーズ、さらに日本球界では古巣のオリックス・バファローズと、出身地の愛知県を本拠地とする中日ドラゴンズが興味を示す報道があったが、12月19日にヤンキースと2年1300万ドルで契約を結んだことが発表された。
ヤンキースは1年契約を基本線としていたが、他球団が2年契約を提示していたことが明らかになり、方針転換したと言われる。
一部のファンなどからは背番号を長年慣れ親しんだ51に戻すべきという意見もあったが、引き続き31を着用することとなった。


2013年
7月14日のミネソタ・ツインズ戦でメジャー通算2000試合出場を達成。
2000試合出場時点での2696安打はタイ・カッブジョージ・シスラー、アル・シモンズ、ロジャース・ホーンスビー、ポール・ウェイナーに次ぐ6番目となった。

 

8月21日のブルージェイズ戦ではブルージェイズ戦に「2番、右翼」で先発し、1回の第1打席で、相手の先発投手R.A.ディッキーから左前打を放ち、日米通算4000安打に到達した。

 

9月8日のレッドソックス戦ではシーズン20個目の盗塁を成功させ、2001年のメジャーデビューから13年連続20盗塁以上を達成した。
しかし、これがシーズン最後の盗塁となり、シーズン全体の成績も前年より下降した。

 


・17年目

2016年8月7日、史上30人目のMLB通算3000安打を達成。
16シーズン目での3000安打到達はピート・ローズと並び史上最速タイ記録。
3000本目の安打を三塁打で決めるのはポール・モリター以来、史上2人目であった。
さらにこの三塁打福本豊の持つ三塁打数の日本記録NPB/MLB通算で更新し、単独1位の116本目とした。

また、同一シーズンにMLBで3000安打と500盗塁を同時達成したのは史上初である。

 

8月16日、レッズ戦にスタメン出場し、9回の第4打席でライトへ三塁打を放ち、MLB通算3004安打目にしてMLB全30球団の本拠地で安打を記録した。29日のメッツ戦では4回に左前打を放った後、シーズン10個目の盗塁を記録し、NPB/MLB通算でMLB最多となるリッキー・ヘンダーソンに並ぶ23年連続2桁盗塁を成功させた。

 

9月6日のフィラデルフィア・フィリーズ戦において代打で出場し、NPB/MLB通じて自身初の代打本塁打を放った。

 

9月13日のアトランタ・ブレーブス戦で史上12人目となる通算900試合目の複数安打を達成した。

 

10月5日、2017年における球団側が選択権を持つ契約オプションが行使されてチーム残留が決まった。


2017年4月19日、セーフコ・フィールドでのマリナーズとの最終戦では、ビジターの選手では異例の首振り人形が配布された。
その試合で先発出場し、最終打席で本塁打を放ち、マリナーズファンは惜しみないスタンディングオベーションを送った。
なおこの本塁打NPB時代からつづくシーズン連続本塁打記録を25シーズン連続と伸ばし、リッキー・ヘンダーソンのもつMLB記録に並んだ。
またこれでMLB通算761打点とし、松井秀喜の760打点を超え、日本人メジャーリーガーで歴代1位となった。

 

6月25日、カブス戦に「1番・中堅」で先発出場。43歳246日での中堅手としての先発出場は、2002年7月24日、当時ボストン・レッドソックス所属のリッキー・ヘンダーソンが記録した43歳211日を抜き、MLB史上最高齢記録となった(その後も数試合で先発し、9月18日に記録を43歳331日に更新)。

 

9月7日、ナショナルズ戦の5回に代打で出場して中前安打を放ってNPB/MLB通算5863塁打とし、王貞治が持っていた日本記録NPB/MLB通算で塗り替えた。
また、右翼手として史上8人目となる通算4000刺殺に到達した。

 

11月3日、2018年における契約オプションが行使されず、マーリンズを退団することが発表された。

 

2019年3月、引退。

 

以上、今回は元プロ野球選手のイチローについて方位学的な視点から考察してみた。