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12.方災によって足腰が不自由となった人、吉方を用いて平癒した実例 -「方鑒家相要義」より

 

今回も飯田天涯著「方鑒家相要義」より取り上げる。

方災に依りて足腰不自由と爲りたる人、吉方を用ひて平癒せし實例

 

柴田南海鑑定 

 

大正四年八月埼玉縣地方遊歴の際、浦和在其家の妻女永年の病気にて困難せる由にて予に鑑定を請はる。

其婦人は明治十年(1877年)生れ丁丑六白命である、明治三十二年(1899)二十三歳にして嫁し、翌明治三十三年(1900年)分家する為め北方に新築轉居せり、
然るに其後明治四十二年(1909年)に至り男子出產後(尤も此間商業上不幸失敗あれども略す)足腰不自由となり如何に名醫の投薬治療を施すも殆と効果なく今日迄七箇年間引続き病める由を語れり。

 

依て種々考察するに明治三十三年(1900年)は庚子一自中宮にして、北方は六白暗剣殺の在泊宮にして大凶の方位である、
又明治四十二年(1909年)發病せし年は己酉一白の中宮歳にして轉宅後十箇年目に當り、九是一廻周の期なるを以て方災殊に顕著なる年である、
易に坎(北の方)を中男とし又妊むす故に男の子を妊みて災(暗剣殺を犯せし報ひ)となりたるのである、

然れども坎(北方)の方災のみにては臨産の悩み在れども、足腰の応せず依て他に必ず方災あるべきを察し、篤と調査せしに果して明治四十年(1907年)丑寅の方に當りて、間口五尺奥行二尺餘の竈を造り在るを發見せり、
此れ明治四十年(1907年)は丁未三碧中宮の歳にして丑寅の方は六白在座し此婦人の本命の大凶方に當り、又歳破在泊し居りて六大凶殺中の二大凶殺在座せる最大凶方である、

 

易に艮に足腰の象あり(故に艮宮の災は足腰に在り)即ち丑寅の凶方と北の凶方とを犯せる結果なること分明せるを以て予は其家人に云って曰く方災に依りて起りし病氣なれば方徳に依りて快癒することを得られるから、病気の快癒せんことを欲せば宜しく方徳を修むべしと懇に諭したのである、

 

然るに此家の主人訝りて曰く先生の断なれども如何に考ふるも鴨轉居或は竈の修造に依りて人體の強弱、健不健に関すること到底思ひも寄らねことであるとて、子の説を退けんとせり然るに病者の曰く理の如何は暫く置き今日迄は醫師と藥を信じ、有ゆる方法を施せしも些少の効果なさを見れば、必ず他に理由の存する在らん依て速に先生の言の如くせん事を主人に懇願せり、主人も不承々々にて予の言に隨ふことを約せられた。

 

依りて其年大正四年は乙卯四歳の年であるから、先づ丑寅の竈を取り除かんとせしが、中七月立秋處暑節(新八月)は二黒中宮の月にして丑寅の方には月家の五黄殺及月破の二大凶廻泊し居り如何とも致し難きを以て、先づ地支の大吉方たる北方に向ひて(九星は年月共凶方なれども此の病気の原因は北の方災より起りたるのであるから、北方盛なるを利用し坎の腎氣を盛にす)臺所(台所)の増築を行ひ翌八月酉の月白露の期節(新九月)に至り前に築造し在る丑寅の竈を全部取り除き一時廢物となさしめた、 

 

予は此の時家人に注意して曰く此の病氣と竈との關係如何は、竈を取り除きたる後必ず病気に變動(変動)を超すである、此れ病の退去する前徴であるから、必ず心に懸けぬ様にと話して置いた、
果せる哉竈を取り除きてより四十日前後となって病気に異變を来し此病人一層重患となりた、本人は勿論家族の心配は一方ならざりしが、此れ身體健康になる前徴にして恰も丑寅の竈を取除きてより、四箇月目(即ち其年十二月の中旬)には病魔退散し身體意の如く自由となり、日一日を快方に赴き七簡月目は些少の異狀をも認めず病気は拭ふが如く快復し、全く平常の健康體となり、七箇年の永き重病も弦に全く平癒し先きに不承々々の主人も實に方災方徳の顕著なるに驚きぬ、爾来は自ら進みて方の道を守り吉方に向って修造動土を行い、夫れより益々家運隆盛に赴き深く其徳に感じ居れり。

 

以下、現代語訳。

 

方災によって足腰が不自由となった人、吉方を用いて平癒した実例

 

柴田南海鑑定 


大正4年(1915年)8月、埼玉県地方を旅行中、浦和のとある家で、妻が長らくの病気により困難しているという理由により、私に鑑定を依頼した。

 

その婦人は明治10年(1877年)生まれの丁丑六白命である。

明治32年(1899年)23歳にして嫁ぎ、翌明治33年(1900年)に分家するために北方に新築転居した。

それなのにその後明治42年(1909年)に至り男子出産後(最もこの間商業上の不幸失敗があったが省略する)、足腰不自由となり、どのような名医の投薬治療を施すもほとんど効果なく、今日まで7ヶ年間引き続き病める理由を語った。

 

よって種々考察するに、明治33年(1900年)は庚子一白中宮であり、北方は六白暗剣殺の在泊宮であり大凶の方位である。

また明治42年(1909年)発病した年は、己酉一白中宮歳にして転宅後十ヶ年目にあたり、九星一廻周の時期であることをもって、方災が特に顕著となる年である。

易に坎(北の方)を中男として、また妊娠するとする故に男の子を妊娠し、災い(暗剣殺を犯した報い)となったのである。


しかし、坎(北方)の方災のみにしては、早産の悩みあれども、足腰に影響せず、よって他に必ず方災があることを察し、念入りに調査したところ、果たして明治40年(1907年)に丑寅(北東)の方にあたって、間口五尺奥行き二尺余りの竈を造ってあるのを発見した。

これは明治40年(1907年)は丁未三碧中宮の歳にして丑寅(北東)の方は六白が在座し、この婦人の本命の大凶方にあたり、また歳破が在泊していて六大凶殺中の二大凶殺が在座する最大凶方である。

 

易に艮(北東)に足腰の象あり(故に艮宮の災いは足腰にあり)、すなわち丑寅(北東)の凶方と北の凶方とを犯した結果であることは明らかであることをもって、私はその家の人に言って、方災によって起こった病気であれば方徳によって快癒することを得られるから、病気の快癒することを欲せば、よろしく方徳を修むべしと丁寧に諭したのである。

 

それなのにこの家の主人疑わしく思い、先生の判断であるがどのように考えても、転居あるいは竈の修造によって人体の強弱、健康・不健康に関すること到底思いも寄らないことであるとして、私の説を退けようとしたが、病人は、理由の如何はしばらく置いておいて、今日までは医師と薬を信じ、提案された方法を試してみたが、少しの効果のなさを見れば、必ず他に理由があるだろうと考えて、すぐに主人に先生の言う通りにしてほしいと懇願し、主人も不本意ながら私の言う通りに従うことを約束した。

 

よってその年大正四年(1915年)は、乙卯の年であるから、まず丑寅(北東)の竈を取り除こうとしたが、中7月立秋処暑の節(新8月)は、二黒中宮の月であり、丑寅(北東)の方には月家の五黄殺及び月破の二大凶殺が廻泊しているため、如何とも取り掛かることが難しいことをもって、
まず地支の大吉方である北方に向かって(九星は年月とも凶方にだが、この病気の原因は北の方災から起こっているのであるから、北方が盛んであるのを利用し坎の腎氣を旺盛にする)台所の増築を行い、
翌8月酉の月、白露の期節(新暦9月)に至って、前に築造していた丑寅の竈を全部取り除き、一時的に廃棄させた。

私はこの時、家族に注意して言った。
この病気と竈との関係如何は、竈を取り除いた後に必ず病気に変動すを起こす。
これは病気が改善する前兆だから、必ず心配しないようにと話しておいた。

 

竈を取り除いてから約40日前後となって病気が異変を来たし、この病人は一層重い病状になった。
本人はもちろん、家族の心配も一層深まったが、これは身体が健康になる前兆であり、まるで丑寅(北東)の竈を取り除いてから4ヶ月目(つまりその年の12月の中旬)に病魔が去り、身体は本来の自由な状態に戻り、日に日に快方に向かい、7ヶ月目にはわずかな異状も見られず、病気はまるで消え去るかのように回復し、完全に通常の健康体となり、7ヶ年の永き重病も完全に治癒し、以前は不本意だった主人も、実に方災方徳の明らかな結果に驚いた。

 

以来、自ら進んで方の道を守り、吉方に向かって修造動土を行い、それによりますます家運が繁栄するようになり、その徳を深く感じている。

 

 

・災いの原因となった転居

まず結婚後に災いの原因となった明治33年(1900年)の北への新築転居の方位を見てみると、

1900年の方位盤

坎宮(北)

年盤:乙巳 六白金星 暗剣殺

 

その後、明治42年(1909年)に男子出産後に足腰不自由となったとのことだが、
方位を取った1900年を一年目とすると、1909年は10年目となり、一般的に凶事象の出る三飛び周期と一致する。

 

・竈を造った方位

しかし、北の方災のみにしては足腰にまでは影響しないため、他の方災の原因を探してみたところ、明治40年(1907年)に家の北東に竈を造っていたことが判明。

その時の方位を見てみると、

1907年の年盤

艮宮(北東)

年盤:庚戌 六白金星 九星本命殺 歳破 地支本命的殺(干支九星)

 

九星本命殺と歳破の二大凶殺が廻座する最大凶方だったとしている。

ここでも干支九星で言われている十二支の本命的殺については特に触れられていない。



・台所の増築

大正4年(1915年)8月に、北東の竈を取り除こうとしたが、月盤で五黄殺と月破が巡る凶方であったため、九星は年月ともに凶方だったものの、北の方災消しと地支の大吉方を優先して、北の台所の増築を行った。

 

 

1915年8月の方位盤

坎宮(北)

年盤:庚申 九紫火星 九星定位対冲 陽貴 駅馬 大将軍 歳刑
月盤:己丑 七赤金星 天徳 月徳 九星本命的殺 地支本命殺(干支九星、郭氏元経) 干支本命的殺(陰陽方位便覧)

 

六白命なので、年盤九紫は剋気で、月盤は九星本命的殺なので凶としている。

干支を見てみると、丑命だが丑が廻座する地支本命殺。
さらに陰陽方位便覧の干支本命的殺でもある。

一方で五つ目の宮で、天徳と月徳が巡る吉意の強い方位でもある。

この辺りの用い方をみる限り、九星や干支の凶よりも五つ目や天徳月徳の吉を優先していたことがわかる。

 

 

・竈の取り除き

翌月の大正4年(1915年)9月、方災の原因となったとされる北東の竈を取り除いた。

1915年9月の方位盤

艮宮(北東)

年盤:戊午 七赤金星 陰貴
月盤:戊子 四緑木星 天徳 陰貴人

 

六白命なので、年盤の七赤金星は比和、月盤の四緑木星は剋気。

丑命なので、月盤の子は定位の寅と合わせると、子丑寅の三支並び。

子が巡っているので子丑の支合でもある。

月盤はまた中宮支の酉から数えて五つ目の宮を用いている。

 

竈を取り除いてから40日前後で病状が重くなり(好転反応か)、4ヶ月目で病魔が去って日に日に快方に向かい、7ヶ月目には完全に健康体となったとのこと。

吉方を取った場合には三飛び周期で事象が出ることも多いが、その周期で表れていることも興味深い。