今回も飯田天涯著「方鑒家相要義」より取り上げる。
吉方を用ひ開運せし實例
嘉永五年壬子四綠命生
明治三十八乙巳五黄年(1905年)、新曆八月立秋の節中五黄月に、北に向つて假りに移轉し、同年新暦十二月冬至の節 子一白月に辰巳に向って又假りに移轉し、
翌三十九丙午四綠年(1906年)新曆四月清明の節辰六白月に永住の目的を以て未申に向って移轉す。
茲に至て此の婦人大に開運し順潮となう職業益々繁昌せり。
此婦人が上記の如く再度假移轉せしは、其當時本人の目的地は現在の住所より丑寅に向って移轉せんとせしのであるが、其當時數年間は其目的地が凶方であるから、前記の如く再度假移轉の法に依りて、以て目的地の方たる丑寅の方を未申に見るべく移方轉氣を爲し、最後に於て目的地を未申の吉方となし、移轉したる方徳に依り運命を開拓し事業の発展を爲し成功したのである。
註に曰く、此轉換法に依り運を開きたるは勿論、而かも其業に於ても方鑑の理に合して居るのである。今其概略を説示せん。
此婦人明治三十九丙午四綠年新曆四月辰六白月に未申に移せり、此れ年に於ては未申に一白廻座し、月に於ては三碧廻泊せり、易に一白を水とし三碧を草木とし、坤未申を手とし又曰く地に致役すと云ふ。
故に此婦人生花を以て業となす、尤も適當せり其方徳の合理的にして其効顕の著るしき實に此くの如しである。
以下、現代語訳。
嘉永五年(1852年) 壬子 四綠命生
明治38年(1905年)の新暦8月に、北に向かって仮に移転し、
同年新暦12月冬至の節には子一白の月に、辰巳(南東)に向かって再び仮移転した。
そして、翌年の明治39年(1906年)の新暦4月清明の節に辰六白の月に未申に向かって永住する目的で本格的に移転した。
彼女が再び仮移転したのは、当時の彼女の本来の目的地は現在の住所から丑寅(北東)に向かっての移転であったが、当時の数年間は目的地が不吉であったため、再び仮移転の方法に従い、最終的には目的地を未申(南西)の吉方向に決定し、移転した。
この方法によって運命を開拓し、事業を成功させ、職業がますます繁栄することとなった。
なお、この移転法によって運を開くだけでなく、彼女の事業も方鑑の理に合っていたとされている。
彼女の成功の概要を説明する。
彼女は明治39年の丙午の四緑年に新暦4月に未申(南西)に移り、この年に未申に一白が座り、月には三碧が廻泊する。
易で言えば、一白を水、三碧を草木とし、坤未申を手、また地に致役するといわれる。
そのため、彼女は花の生業を持ち、この方徳が合理的であり、その効果が顕著であることが実証されている。
この事例では、当初北東へ転居を目的としていたが、凶方位であったため、
北、南東、南西と3回の移転によって方位を取ったことで開運したとしている。
順を追ってそれぞれの方位を見ていく。
・1回目の移転
明治38年(1905年)乙巳五黄年 8月立秋の節 五黄月
坎宮(北)へ仮移転
坎宮(北)
年盤:庚戌 一白水星
月盤:己丑 一白水星 天徳 月徳
この事例でも、壬子命が月盤で中宮の申から数えて五つ目の子の方へ動いている。
また月盤の対冲には子が廻座し、十二支の本命的殺方位でもある。
この事例でも、干支九星では凶とされる十二支の本命的殺方位を開運のために用いていることがわかる。
・2回目の移転
明治38年(1905年)12月節
辰巳(巽・南東)に向かって移転。
年盤:癸丑 四緑木星 九星本命殺
月盤:丙申 九紫火星 天徳 陰貴
年盤で本命の四緑に移転しているので九星本命殺だが、
月盤では巽宮(南東)は、また中宮支から五つ目の方位となる。
また、子命なので、月盤の申廻座、定位の辰と合わせて、三合水局(子辰申)が成立する方位でもある。
4ヶ月と比較的短期間の仮移転だったからか、月盤の五つ目の宮であることや三合の吉方を優先したのかは不明だが、九星本命殺の方位を用いているのが特徴。
巷の九星のみで判断する方位学などもそうだが、わかりやすくするために簡略化してしまいがちだが、実際には方位には多くの要素が重なるため、一つの要素を元に 1 or 0 で考えずに総合的な判断が求められる。
・3回目の移転
坤宮(南西)
年盤:壬子 一白水星 干支本命殺(郭氏元経)
月盤:戊戌 三碧木星
壬子命なので、年盤の壬子は干支九星や郭氏元経でいうところの完全に干支の本命殺の方位。
干支の本命殺は、郭氏元経では家長死亡とまで書かれているが、やはり凶殺としての信憑性があやしい。
月盤では、また中宮支から五つ目の宮を用いている。
子命と、さらに辰月との三合関係(子辰申)である定位の申を含む坤宮(南西)を吉方位として用いている。
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