のつづき
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他に新潟から上京した有名人で探してみたところ、小林幸子も1964年に歳徳神の方位で歌手デビューしていた。
1963年、9歳の時に、父親に「東京見物に連れて行ってやる」と言われ、知らずに受けた視聴者参加番組「歌まね読本」のオーディションでグランドチャンピオンとなる。
審査委員長だった古賀政男にスカウトを受け、
9歳の幸子は新潟駅で同級生に見送られながら一人、故郷・新潟から上京した。
翌年1964年6月に、「ウソツキ鴎」で歌手デビュー。
Wikipediaでは「翌1964年(昭和39年)には新潟市内で肉屋を営んでいた家族とともに上京」とあるが、
複数の記事で、小林は9歳の頃に一人で上京し、家族は新潟地震で被災から5年後の1969年に上京とあるので、Wikipediaの内容は誤りと思われる。
小林が上京した1963年の新潟市から東京の方位が、定位での歳徳神の方位だった。
・上京1年目
古賀事務所に所属し、古賀作曲のデビュー曲『ウソツキ鴎』が、レコード販売20万枚のヒット曲となる。
・5年目
1968年には青春ドラマ『青い太陽』に主演。
背泳ぎでオリンピック出場を目指す女学生を演じ、同作の主題歌と挿入歌も歌唱。
しかし上京時の方位は歳徳神だったものの、年盤では五黄殺が被っていた。
(何月何日に上京したかまでは分からなかった)
その影響か、"第2の美空ひばり"と騒がれたが、歌手業ではヒット曲が続かず、
またお手本としていたはずの美空ひばりの母親から、あまりにもひばりを模倣しているとの嫌悪感から敬遠され(後に和解)仕事が激減していき、10年の長い不遇が続く。
低迷期には10年間にわたって一人で全国各地を行脚し、地方興行の中で人に言えぬ苦労を経験した。
不遇の10年を経ての1979年、『おもいで酒』が有線放送から徐々に知名度が上がり、
レコード販売200万枚の大ヒット。
この年の暮れ『第30回NHK紅白歌合戦』に出場し、紅白初出場を果たす。
全日本有線放送大賞グランプリ、第21回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞。
1980年にはシングル『とまり木』も大ヒットした。
その後も『ふたりはひとり』、『もしかしてPartII』、『雪椿』などの大ヒット作に恵まれ、紅白への連続出場も果たす。
紅白歌合戦には34回出場したが、
初出場の1979年から2011年までの連続出場は33回と、紅組歌手の中では単独1位となっている。
月盤の五黄殺については、原書に吉神を重ねることで制化できる旨の記述があるが、年盤の五黄殺については、制化法無しとの記述がある。
しかし、紅白紅組連続出場最多や、紅白落選後も動画投稿サイト「ニコニコ動画」にて、若いネット世代から”ラスボス”として親しまれ再ブレークするなど、長期に渡って活躍しているところを見るに、
実例としてはその限りではないのかもしれない。
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